A small contribution to the japanese history, through a small oral report.... for the japanese speakers for the moment.
ジュール・ブリュネ
(1838-1911)
- 今日の発表の主題は”ザ ラスト サムライ”ジュール・ブリュネです。
- ジュール・ブリュネは1838年にベルフォールというフランスの町に生まれました。
- 1857年にエコール・ポリテクニックを卒業しました。
- 1862年から1867年までフランス軍としてメキシコに派遣されました。
- そこでの武勇をみとめられて、勲章を受けました。
- 1867年に第一次軍事顧問団のメンバーとして横浜に到着しました。
- 将軍徳川慶喜のために精鋭部隊を養成する任務を負いました。
- 滞在中に日本の文化と伝統に魅せられました。
- 当時の日本では政治的・社会的騒乱がありました。
- 1868年の初めから明治天皇が公式に700年続いた幕府から政権をとり戻しました。
- 薩摩や長州や土佐など西国の藩は天皇を支持していました。
- 将軍は政権を返すことを拒否したので、戊辰戦争という内乱が勃発しました。
- その戦争では鎖国政策に賛成する攘夷派と幕府軍が戦いました。
- 京都の鳥羽・伏見の戦いに敗戦したあと、幕府軍は江戸に撤退しました。
- フランス大使レオン・ロッシュが町の適切な防衛計画を提案しましたが、将軍はロッシュの忠告を聞きませんでした。
- その結果、1868年7月に攘夷派が江戸を包囲し、将軍が降伏しました。
- 1868年9月3日に天皇は江戸を東京と改称して、そこで暮らしました。
- 東京はその時から日本の首都になりました。
- ナポレオン三世は中立を宣言して、第一次軍事顧問団を召還し、フランスへの帰国を命じました。
- しかしジュール・ブリュネと他の8人のフランス軍人はそれに従いませんでした。
- ジュール・ブリュネと彼が養成した精鋭部隊は北海道に行きました。
- 彼らはすぐに全島を掌握しました。
- フランスとイギリスは蝦夷の政府を承認しましたが、明治天皇が受諾しませんでした。
- ジュール・ブリュネは軍を指揮して、蝦夷の防衛の準備をしました。
- 1869年3月に本州から10000人の日本政府の遠征部隊が上陸しました。
- この時、3000人の兵士だけが蝦夷共和国を守るために戦いました。
- ジュール・ブリュネは4か月に渡り、英雄的に敵軍に抗戦しました。
- この出来事を函館戦争と言います。
- 1869年6月20日から27日まで五稜郭の要塞でジュール・ブリュネと残りの幕府軍は共に最後の一戦を交えました。
- 戦いが終わる頃には2000人いた蝦夷共和国兵士のうち800人だけが生き残りました。
- それに対して政府軍は8000人いました。
- ジュール・ブリュネは最後まで戦いましたが、フランスの船で逃げることに成功しました。
- 彼の日本での冒険も蝦夷共和国も江戸幕府と共に終わりました。
- そして明治時代が始まりました。
- ジュール・ブリュネがフランスに戻ったあと、明治政府は彼の起訴を要求しました。
- しかし、彼はフランス国内で人気があったので難なく軍での経歴を積んでいきました。
- そしてジュール・ブリュネは大将になりました。
- 1911年に彼は74歳でなくなりました。
- 彼の快挙のおかげで明治政府とフランス政府の協力関係は続きました。
- 1872年と1884年に日本軍を近代化させるために2度軍事顧問団が来日しました。
- 1886年にルイエミール・ベルタンは日本の第一次近代海軍を創設しました。
- 1919年にフランスから来た軍の技術者は第一次日本空軍の創設を監督しました。
- 日本では、1876年から廃刀令が発せられたので、この時ジュール・ブリュネは本当の « the last samurais » と共に戦ったことになります。
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